みなさんはひろゆき氏の投稿した沖縄の辺野古移設反対の活動に対してのツィートが色々な物議を醸していることをご存知だろうか?
ひろゆき氏の投稿したツィートは、米軍基地の辺野古への移設に反対する座り込みに対してのものだ。
どういう内容かというと「座り込み連続3011日の看板の前で記念写真を撮り、これって座り込みしてないので0日にした方が良くないか?」というものであった。
このひろゆき氏のツィートに対して、基地移設反対派が猛反発しているという図式なのだが、その主張がはっきり言って反論になっていないというのが私の出した結論である。
どうしてそう思ったかをこれから説明していこうと思う。
【座り込みの定義とは?】
さて、まずは座り込みの定義について述べていこう。
広辞苑では座り込みとは『運動主体が特定の場所に座り込むことによって、運動の的に対して直接的な打撃を与えることを意図したり、自分達の要求を第三者に広くアピールしたりすることをさす』とある。
この定義から言えば時間、日付のことは書いていない。
あくまでも『特定の場所に座り込むという手段によって自分達の要求を通すための行動』ということである。
そのため1年だろうが、1分だろうが時間の問題ではないということだ。
たとえ、1秒でも目的のために特定の場所に座り込めばそれは座り込みと言えるのだ。あくまでも定義上で言えばだ。
【基地移設反対派の反発内容】
さて、定義を理解していただけたということで、今度は基地移設反対派のひろゆき氏への反論というよりも反発の内容をチェックしていこう。
少し探すだけでどんどん出てくるのでキリがないのだが、ここで私が代表的な反発内容を紹介しておこう
『座り込みはずっと連続しなければならない訳ではない』
というものだ。
【時間は関係ない……だが】
基地反対派の主張する座り込みに時間の長さは関係ないという主張ではあるが、それは広辞苑の定義を完全に支持するというのならば間違いではない。
そこは良いのだが、それでも『座り込み連続3011日』という主張は無理があるとは言えないか?
確かに座り込みの定義が存在しない、あっても根拠が希薄ではあるが、連続3011日というのは無理があるとは言えないか?
一般的な感覚で『連続』というのは『途切れない』を意味するとは言えないか?
そりゃあ一日中ずっと座り込みするというのは無理がある。だが、それでも交代制にして24時間途切れないようにするというのが座り込みの感覚としてしっくりくる。
私は別にひろゆき氏の言い分を完全に肯定すべきというわけではないのだが、今回の『0日にした方がよくないか?』という主張の方が説得力があると言える。
それに『沖縄の人の決死の覚悟を嘲弄するのか?』という反論もあるのだが、果たして1日のうち搬入時だけの座り込みを決死の覚悟と言えるのだろうか?
もし、事実の指定が侮辱となるのなら、その行為自体が恥ずかしいこととは言えないだろうか?
沖縄の基地移設に反対するのは当然の権利であるし、全然しても構わない。だが、誇張するような表現を使うことが果たしてどのような結果をもたらすことになるのかはきちんと考えるべきであろう。
私は少なくとも今回の連続座り込み3011日というのは違うという結論に至っている。
基地反対派の人たちは、私のように考える人に対して『差別だ』『虐げられている』などの感情に訴えるだけの反論は慎むべきだ。そうではなく真摯に反省し、『確かにおっしゃられる通り誇張表現であった。だが、こちらの基地反対に対する熱意を否定するのは止めてくれ』という類の声明であればそれなりの支持を得られたのではないだろうか?
「それはそれ、これはこれ」というスタンスの方が結果的に上手くいくものである。そのことを頭に置いてほしいものである。